2017年4月27日木曜日

4/27 無我

休みです。

今月は、運命の輪について考え学んでいます。
今日は、ペンタクルス6を通して運命の輪に近づく。





















ペンタクルス6
こないだも出たな。「商人の姿をしたものが困っているものに与える」とあります。
一方的に与える。見返りを求めない。
たぶん、こういう行為からしか得られないものがあるのでしょう。

それは〈正義〉に描かれている天秤にも繋がるものかもしれない。

布施。
布き施す。死蔵しない。
昔、祇園精舎を仏陀に捧げようとした商人だったか、娼婦がいました。
土地の持ち主の王様から購入するとき、代金として王様の言うがままに黄金を土地全体に布きつめ買い受けたというところから来ていたと思う。

無償の愛とか、思いやりとか、気づかいではないよ。
ペンタクルス・動かぬもの・触覚で感じられるもの。これを見返りを求めず施す。
小アルカナ、日常の行為の中にこそ修業がある。







運命の輪。
過去の業の結果、「なるようにしかならないさ」と虚無に陥る傾向があります。必死に踏みとどまっている。

昨日、生徒の一人が「先生になにかあったときの連絡網をつくりたい」みたいなことを言いました。「急逝したとき?」みたいなことを聞きかえしたら苦笑いみたいな感じ。


俺ってこんな感じなんだよなぁ。ここで誰かが死んじまったら公園の片隅に運んで、残った者はしばらく身を隠そうなんてぼそぼそと呟き合っていた時代が長すぎたのかもしれない。

生ある限りは全力で生きるが、死んじゃったら葬儀とか墓とか別にどうでもいいと思っています。 ゴミの日に回収してもらっても構わない、燃やすごみなのか、不燃ごみなのかの問題はあるし、法律的にどうなのかという問題さえクリアすれば、ゴミの日で無問題。

先祖は供養し感謝したほうが良いが、お墓を立派にして法事をなんちゃらってのは違う気がする。
無縁仏とかいうじゃん、仏・覚者になったら縁起から離れるから無縁になって当然だろうよ。葬儀とか法事は生きている者の為だと思う。

ベナレスではごく普通の旅行者のように街角で火葬をするところを観に行きました。
ま、それなりの想いは起きた。

インドに行くと死生観が変わるという。
火葬を観てもそれほど大きなものは感じなかったが、荼毘にふしている最中の亡骸を食おうと待ち構えている野犬の群れの狂った目つきを見たときはウッときた。

いまでもあるのかな。
インドでは四住期という考え方があります。歳をとったら住まいを持たず乞食遊行生活をする。
そして旅の途上で臨終を迎える。

日本だったらお遍路さんの途中で臨終を迎えるようなもんかな。野坂昭如の小説で兄妹が巡礼をしている小説があった。妹は娼婦で梅毒にかかり悪化してくと言う哀しい話だった覚えがある。





運命の輪・ペンタクルス6
捨身飼虎




 

輪廻というのはあるんだろうか。地獄とか極楽、天国とはあるんだろうか。
なきゃないで構わないが、あったとしたらまずいので保険として善業を積む(笑)

ほんと、無知で恥ずかしいが、つい先日まで大乗仏教ってのは悪行三昧でも死ぬ直前に南無阿弥陀仏とか心から唱えると阿弥陀様が五色の雲に乗って迎えに来てくれると思ってました。

さすがに極楽が酒池肉林だとは全く思っていませんでした。だけど、極楽に生まれ変わった俺は苦しみも痛みも悩みも哀しみもなく、極楽浄土の片隅で説法を聴いているんだろうなぁとか妄想してた。。。

なんか違うみたい。
俺が極楽に生まれるのではないみたい。
〈俺〉は無いし、〈俺を産みだすもの〉も無い。それが極楽みたい。




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